こんにちは、失礼します。
生搾りどくだみ青汁酒・十黒梅(じゅっこくばい)の食援隊、細川泰伸です。
いつもいつも十黒梅をご愛飲頂きまして本当にありがとうございます。
またこの度は、手作り新聞「イキイキ元気倶楽部通信」を
お手に取って頂きまして心より感謝申し上げます。
あの大惨事をもたらした東日本大震災から2年が経ちました。
震災でお亡くなりになられました方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、被災されまして、まだご不自由な生活をお送りになられておられる皆様、
心よりお見舞い申し上げます。1日でも早い復興、
そして皆様のご健康を心よりお祈り申し上げます。
さて、暦は3月に入りました。まだまだ寒い毎日が続いておりますが、
日中は暖かさも感じられるようになってきました。
こちら高知は、3月8日(金)に春一番が吹き、
待ちに待った桜の季節が近づいてきております。
高知は桜の開花が全国的にみて早い方で、「日本気象協会」によりますと、
今年の桜の開花予想は、3月18日だそうです。(昨年:3月21日)
桜の季節といえば、卒業・入学・進学・進級・心機一転の季節です。
我家の長女は、お陰様で今年から中学校に進学する事になります。
思い起こせば、大きなランドセルに背負われるように、
初めて小学校に登校した時の姿が、
つい先日のように感じられ、あれから6年間が経ったと思うと、
月日の流れの早さに驚くばかりです。
新しい学校、新しい友達、新しい生活に、胸を弾ませているようで、
新調しましたセーラー服に袖を通しては、鏡の前でポーズを取っております。
さぁ!新年度、私も今年は、十黒梅をご愛飲頂いております皆様に、
さらにお役に立てるよう、喜んで頂けるよう、商品作りに励みたいと思います。
そう、意気込んでおりましたら・・・
以前、定期購読をしておりました雑誌「致知」の致知出版社様から
「ご縁メール」を頂きました。 そのメールに心を打たれ、励まされ、
今年も頑張ろうと強く思いましたので、ご紹介させて頂きます。
致知出版社の「ご縁メール」 2013/3/4 より転載(特集「総リード」より)
■新聞掲載(四肢切断 中村久子女史の生涯)■
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。
診断通りだった。それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。
悲嘆の底で両親は手術を決意する。少女は両腕を肘の関節から、
両足を膝の関節から切り落とされた。少女は達磨娘と言われるようになった。
少女7歳の時に父が死亡。
そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。
手足のない少女に着物を与え、
「ほどいてみよ」「鋏の使い方を考えよ」「針に糸を通してみよ」。
できないとご飯を食べさせてもらえない。少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。
文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。
ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。
それでも幼友達は大喜びだったが、その母親は「汚い」と川に放り捨てた。
それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。
この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。
その人の名は中村久子。後年、彼女はこう述べている。
「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
人間としてどう生きるかを教えてくれた最高最大の先生であった」
そしてこう断言する。
「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」
私は、このメールを拝読させて頂いた時、涙を押える事ができませんでした。
自分自身を振り返った時、いろいろな壁や困難に体当たりでぶつかり、
それらを乗り切ってきたつもりでした。
しかし、それらの壁や困難が、いかに小さい事か・・・・
彼女の強く生きていく姿勢に心を震わされました。
そして今、私の家族の中で1人、困難にぶつかっている者がおります。
それは、小学4年から5年に進級にする長男です。
長男は小学2年から野球を始めまして、
いよいよ高学年で試合に出るチャンスが巡ってきましたが、
残念な事に、昨年秋より利き腕の右肘を痛めて「投球禁止令」が出ております。
病院から帰ってきた時は、無言のまま涙を目いっぱいに貯め、
「右肘がどうなってもいいから野球をしたい」と悲痛な顔をしておりました。
禁止令が出てから3ヶ月程経ったある日の事、
長男が久しぶりに「キャッチボールをして欲しい」というので、
一緒に学校のグラウンドに行きました。
私は、てっきり肘が良くなり「禁止令解除」だと思っておりました。
「さぁ~!来い!」とグラブを構えた時、
数メートル先での異様な光景に驚きました。
なんとっ!右手にグラブをして、左投げのフォームで構えているのです!
(長男は右投げです。)
目を奪われた瞬間、ボールがズバンッ!と
まっすぐ私の方に投げ込まれてきました。
(ズバンッ!は、少し大げさですが・・(*^_^*))
話を聞くと、3ヶ月経っても右肘の治り具合が悪いらしく、
右投げはまだ無理なようで、
それだったら左投げで野球をしたいというのです。
(それもケロッとした顔で….)
私は、長男のその姿を見て、心が熱く励まされる思いがしました。
後から妻に聞きますと、試合を目前に3ヶ月経って、
やっとOKが出ると思い病院に行ったところ、
まだダメ、との診断に、立ち直れないくらいガックリしていたようです。
見かねた医師の先生は、
「そんなにやりたきゃ、治るまで左でやりよれ!」と冗談半分だったそうですが、
息子は単純に、「そーか、そーか!!」と、一気に気持ちが切り替わって、
その気になったということです。
それから、大好きな人気野球アニメ「メジャー」の主人公・茂野吾郎が、
小学生の時に利き腕の右肩を痛め、
中学生から左投げにし、大活躍するストーリーに、自分を重ね合わせたようで、
実際に左で投げてみたら、2日目には思ったより
スムーズに投げれた事が得意になっているようでした。
さらに、教えてもらったのが、近くの少年野球のチームで、
片手を負傷した選手がいるというのです。
捕球した際は、捕球後に脇にグラブを挟み、
ボールを持ち替えて丈夫な方の手で投げるというのです。
数年前、アメリカのメジャーリーグで活躍したジム・アボット投手を思い出しました。
さらにさらに、プロ野球ソフトバンクホークスの松中選手も、
元々は、右利きで右投げだったのが、
小学生の頃に右肩の病気で右で投げれなくなり、
左投げにしたとも聞きました。
それらの事もあってか、左投げに対して、
私が考える程の抵抗はなかったのでしょうか?
そして、私は上述しました「中村久子女史の生涯」の話をしてあげますと、
長男は黙って聞いた後、やればできる!!と、締まった顔つきに!
「投球禁止令」を発令された時のあのしょげた顔はどこへやら!
見ている私まで、心が晴々としてきました。
私は、強く生きていく姿勢を先人と息子から教わり、
ありがたく感謝の気持ちでいっぱいになりました。
そして改めて、いつでもどんなときでも
前向きな気持ちを忘れずに立ち向かっていきたい、と思いました。
春の訪れがもうすぐとはいえ、まだまだ寒い毎日が続いております。
体調など崩されませんよう「うがい、手洗い、十黒梅(じゅっこくばい)」
健康管理には、十分にお気をつけて、お過ごし下さいませ。
それでは、失礼します。
細川 泰伸